「リテラシーについて」
幼稚部の3歳児が、話をしている。
聞いて、聞いて、これはね、と、先生に向かって全身で話をしている。
赤い車、これが走ってくんだよ。すごいスピードで。そして火事がね、火事がね、こーんなに燃えてるの・・・
幼稚部の本の時間だ。子どもたちは図書室にいって好きな本を借り出し、それを読んで楽しんでいる。ひとりで読んでいる子もいれば、先生に本を渡し、読んでと頼んでいる子もいる。めずらしく部屋全体がしばらく落ち着く時間だ。
3歳児のこの子も、書架から何冊かの本を引き出している。そのうちの一冊が消防車の絵本だった。それを開き、2、3枚パラパラとページをめくってから、はじけるように話しはじめたのだった。 おうち、おうちの火がね、ウワッと大きくなってるんだよ。煙が出て、ぼうぼう燃えあがって、ぜーんぶ燃えてるの。そしたらね・・・
話をすること自体が、楽しくてたまらない。その話はしかし、どうも絵本に書いてあることとはちがうようだ。しばらく見ているとこの子は、絵を見て自分なりに物語を作りだしているのだということがわかる。
しかし聞いている先生は、そうなの、すごいねえ、と引きこまれながら相づちを打っている。夢中になって話している子どもの頭のなかには、消防車と火事が、家の燃えている場面がありありと浮かんでいるのだろう。手話のなかにはちゃんと火事の場面が描かれ、こーんなに火がのぼって、というところではほんとに巨大な炎が見えている。
私たちはこの光景を見て、無条件に楽しいと思う。これでいいのだと思う。そしてすでにこの3歳児のなかに、まごうことなきストーリー・テラーとしての素質が開花していることを認めるのである。
この写真を、別な形で読み解く人もいるだろう。
この子は字を読んでいない。絵しか見ていないから、これでは学習にはならないのではないか。日本語は覚えられないし、作者の意図を捉えることもできない。そもそも本の読み方の方向性を欠いている。
この場面をこのように読み解くことに対して、私たちには百の反論がある。しかしここでそれは述べない。反論するより、このような光景に立ち会えるということ、すなわち教育にかかわるものとしての根源的な幸福をたいせつにしたいからだ。この幸福がなければ、私たちはいまの教育を維持することができないし、その勇気も持つこともできない。私たちはまさにこの子たちと出会うことによって、この子たち、すなわちろう児の、手話による教育にかかわる意思を持ちつづけることができたのだった。明晴学園のこの1年は、そのことを確かめつづけた年でもあった。
蛇足ながら、付け加えておきたい。
この写真は、私たちの思いにもかかわらず、どのようにでも読み解ける映像として開かれている。 写真を読み解くということは、メディアを読み解くこととおなじように、また言語や言説を読み解くことともおなじように、つねに多様な解釈の前に開かれているはずだ。どこにも正解がないところで、しかし私が私自身の解を求めつづけようとする意思のなかに、さまざまな知の分野のリテラシーは議論されなければならない。そしてまたそのようなところで、世界は私に対して開かれるにちがいない。
明晴学園校長 斉藤道雄


